Friday, November 25, 2011

なぜぼくは無宗教なのか?



つい先日シェアメイトに質問をされて、なんとなく思っていたことを声に出して見たところ、自分でも考えがすっきりとしたので、ブログに書いてようと思ったわけです。


一応、事前情報として。

ぼくは、28人/10カ国くらいの人達がシェアをする家に住んでいて、日本人以外のほとんどの国の人は宗教を信仰しています。(もちろん人によって信仰の重みは違うんですけど。)なので、特定の宗教に対する思想的偏見は持っていないんです。


「なんで日本人は無宗教なの?」と聞かれて、「まぁ知らない」んだけど、自分の宗教に対する考え方がさらーっと声に出来た自分の意見がこの記事なんだけれど、あくまで一般論ではないので、ご注意をば。


なので、質問は「なぜぼくは無宗教なのか?」
結論からいうと「必要が無い」から。ただし、興味が無いわけではありません。


もしぼくが70歳くらいまで生きることが出来たら、信仰、というか、「宗教と自分の関係性」について考え始めるのかなぁと思っています。




悪い印象からスタートしたぼくの宗教イメージ
ぼくにとって宗教とは、「道徳を養うためのもの」「地域で社会的なつながりを持つためのもの」という2点。


今でこそ、偏見もなく受け入れることが出来ているが、宗教というコトバとの出会いは最悪だったんです。思い出した。20年経った今でも忘れることができない。


そもそもぼくは、無宗教の両親のもとに生まれ、特定の宗教についての信仰と普段の生活とは無関係な生活を送ってきたんだけれど、それは小学3年生のある日、怒鳴り声と共にぼくの目の前に落ちてきたんです。


「お断りしてるんです!!」


普段優しい、温かい母の怒鳴りとふるえる声に、恐怖感を感じました。
それが宗教の勧誘であったことを知った小さなぼくにとって、宗教というものは、「怖いもの」という印象からスタートしました。


その後我が家(ぼくにとってだけかも。)の小事件が起こるのですが、ここでは詳細は控えます。とにかく、出会いは悪いもので、最悪だった。それが最初の印象だったんです。




それから月日が立って────。




大学に進学すると、日本中はもちろんのこと、海外からの留学生など多くの人と接する機会が増えたので、それに伴って自ずと様々な宗教を信仰している友人の道徳観や価値観に触れる機会が増えました。



この時に改めて気がついたのは、人それぞれのの考え方の土台に「宗教がある」ということ。その人の考え方をつくるであろう生活環境や友人との交流と同じように、宗教を進行している家庭の人の多くは、その大部分を宗教に委ねている、ということを肌感覚として感じ取ることになったわけです。(ぼくだけかも知れませんけどね。)


ぼくは特に勧誘もされなかった。友人や知り合いは宗教を、あくまで自分の哲学や価値観としての判断基準として、つまり何かを判断する上で、善悪の判断基準、「道徳」として持っている。


ぼくにとっては、それ以下でもないし、それ以上でもない。ということを感じたのが10代最後の年だった。


ぼくの哲学や価値観に特定の宗教がなかったのは、心を動かされる出来事との接点が宗教になかったのだと思う。たぶん。


────。


30年近く生きてくると当たり前だけれど、様々な勧誘を受ける機会があって、その中でとても印象づよいエピ−ソードがあるんです。




「有事の際、だれがあなたを助けてくれるのか?」地域社会とのつながり
これは、「なるほどなぁ」と思った出来事でした。


今から2年ほど前の2009年ころ。元々の職場の同僚が、ぼくが退職するのをきっかけにご飯に誘ってくれた。同じプロジェクトに関わってくれた方だけれど、声を書けたりはしていたものの、頻繁に喋る機会がある方ではなかったんです。


で、そこで宗教の話→勧誘が始まった。


「数年以内に、大地震が起こる。緊急事態の時、あなたにすがる場所はありますか?」


宗教宗派は忘れてしまった。
彼は、たしかこんなことを言った。


この先大地震が起きたとき、自分が、周りが、街が、政府が混乱をしたときに、誰が助けてくれるますか?
あなたのネットワークを考えてみてください。会社の同僚でしょうか?部下?上司?それとも友人?家族?家庭?だれがあなたを助けてくれるんでしょうか。水不足になった際に、ちゃんと水を得ることが出来ると思いますか?
 
一番大切なのは地元住民との密接な関係性で、その関係性の多くは、特定の宗派と深く根付いているんですよ。

地元住民のコミュニティが特定の宗教と深く根付いているかどうかの真偽はさておき、そんな有事の際には、たしかに地元住民との密接な関係性、それが例えば隣のマンションの家庭であったり、友人宅との関わりであったり、日頃から接点がある人達と助け合いをするというのは容易に想像できたので、「なるほどなあ」と思った。


熱心な信者の方にとっては邪道な考えなのかも知れないし、彼の宗教に対する信仰も詳しく聞いたわけではないけれど、これはこれまで受けてきたいわゆる「自己啓発」とは違ったこの勧誘は、少し考えるきっかけをあたえてくれた。


とはいえ、先に書いたとおり、宗教というものはぼくにとってそれ以上でも以下でもないため、結果的に信仰をする決断はしていないのだけれど。




70歳を迎えたら信仰をするのかもしれない
このまま一生信仰をしないのか、ぼくは。


冒頭にも書いたけれど、もしぼくがこのまま突然死を迎えることがなく、平均寿命のちょいまえまで生きることが出来たら、死ぬということをちゃんと考え始めるんだと思う。すると、結果的に宗教というものに向きあうと思う。



ぼくは、「無の境地」に興味がある。そんな難しいコトバではなく、「終わりが始まり」という小説が好き、というだけなのだけど、結果的に何の意味も無かった小説が無性に好きなんですね。


なので、たぶんそのうち考えるんだと思うんです、ちゃんと。



なぜぼくは生きているのか?生きてきたのか?
なぜ死ぬのか?
結局生きるのことはなんだったのか?


少しむかし、それは、「禅の教えと似ているよ」と誰かが教えてくれたことがあった。(詳しいことは知らない。調べていないので。)


ただ、そんなことをぼんやり考え始めると、禅というものに興味がわき、結果的に何かを信仰する、接点が生まれるのかも知れないなぁと、今は思っている。


まぁでも、いまのぼくには必要がないのだけれどね。

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